バックパッカー旅日記ブルガリア4(おまけ) [バックパッカー]
ブルガリア旅行最後の記事となります。もうしばらくお付き合い頂ければ幸いです。
最後に街で見つけた興味深いシーンやら食事やら、徒然に記していきたいと思います。
キリル文字表記のマクドナルドです。間違いなくマクドナルドなのです。
某銀行のマークが最後まで、「オ」に見えてしまいました。ついつい首を傾けてしまいます。
♪♪東京03~3200、2222、日本~文化センター~♪
ホテルの部屋にて。ゲンを担ぎました。
村の鍛冶屋にて。職人さんがひとつひとつ手作りでコーヒーなどの銅製容器を作っていました。
ブルガリアは農業、酪農国で、野菜、ヨーグルト、チーズが大変豊富です。市場ではこんなお化け野菜が売られています。
ブルガリア料理のレストランで伝統料理を食べました。トルコやギリシャの流れで共通する料理も多いそうです。ただ、チーズやヨーグルトを多用する辺りに、独自の食文化が形成されています。
ショプスカサラダとスープ。白チーズがたくさんかかっています。
サラダプレート。野菜が本当に豊富です。料理の全てを紹介することはできませんので、ほんの一例ですが掲載しました。
以上、長らくブルガリア旅行記をUPさせて頂きましたが、これにてひと段落です。最後までお読み頂きありがとうございました。
つづく・・・・のか?否か?
バックパッカー旅日記ブルガリア3 [バックパッカー]
ブルガリア旅日記も3記事目になりました。もう少々お付き合いください。
ソフィアからバスで3時間、かつてのブルガリア帝国の首都、ヴェリコ・タルノボに到着しました。古き良きブルガリアの面影が残る、ようやく辿り着いた「美しいブルガリア」です。
ソフィアの混沌とした活気あふれる喧騒から抜け出して、緩やかな時の流れる落ち着いた街並みです。
帝国時代の宮殿があったツァレヴェッツの丘、頂上からの眺めは絶景です。
折しもこの日は、ブルガリアの「独立記念日」で祝日でした。東欧の国民的祝日ですから、お店も施設も休みで身動きが取れなくなってしまうのではないかと、不安に駆られていましたが、まったくの杞憂でした。
元帝都ですから、様々なイベントが開催されて、街全体が「お祭り」騒ぎでした。ツァレヴェッツの丘もその日限り無料開放、偶然にネットで予約したホテルの屋上からは夜、丘全体で行われる光と音のショーが特等席で見渡せるという、まさに至れり尽くせりの一日でした。本当に全くの偶然でしたので、ツイテいたの一言に尽きます。
広場では中継も行われ、独立記念イベントが催されていました。
光と、
音のショーです。
街全体から見渡せる、街(国?)をあげての大規模なショーです。
美しいブルガリア。。。。
ヴェリコ・タルノボでは、程近いアルバナシの村まで出かけました。素朴で穏やかな優しい時間が流れている村でした。
竹富島?
石垣の塀が連なる道々には、どことなく沖縄が漂っています。そこで私は思いました。
「世界はどことなく、どこかに似ている」 by elbram。
自分に似ている人が世界に3人いるといわれているように。。。。
最後までお読み頂きありがとうございました。もう1記事だけお付き合いください。
まだつづく・・・・・。
バックパッカー旅日記ブルガリア2 [バックパッカー]
前回に続きブルガリア旅行について記しています。
世界遺産にも登録されているリラの僧院へ行ってきました。
かなりの山奥に立地する僧院へのアクセスはとても不便で、ソフィアからは一日一便直通バスが出ているのみです。地元リラ村からも一日三便しかありません。
①ソフィア直通バス10:20発~リラ12:00着12:40発~僧院13:10着
②ソフィア電車7:40発~ブラゴエフグラッド10:40着~バス11:00発~リラ11:30着12:40発~僧院13:10着
直通で行けばそれは便利に違いありませんし結局リラからは同じバスに乗るのですが、時間のことを考えるとソフィアでバスまでの時間を潰しているより、朝から電車とバスを乗り継いでいく方が、遥かに「旅行」できそうな好奇心に駆られました。
そんなわけでソフィア中央駅の始発に乗車です。駅といい電車といい、何というか東欧チックな雰囲気満載です(前の記事参照)。
同じコンパートメントの乗客に、「ブラゴエフグラッドへ行きますか?」と聞いたら、「ダ(イエス)」の答え。なので安心して乗っていたのですが、そろそろという時間になってその聞いた人がそわそわと周りの人に何か話しています。その後私に窓の外を指さして「ブラゴエフグラッド」と言いました。
「わかんなかったんかい!?」
と突っ込みを入れたくなりましたが、日本と違って車内アナウンスもないので、念のために確認してくれたんだな、とポジティブシンキングで素直に感謝し、別れを告げて下車しました。
ブラゴエフグラッド駅前から歩いてすぐそばのバスターミナルへ向かいます。
近距離バスにもどことなくアジアを感じさせる趣が漂います。古さと汚さゆえ?
僧院玄関口リラへ到着。僧院の麓とは思えない位静かな村です。のんびり散歩をしたり昼食を取りながらソフィアからのバスを待ちました。
リラの僧院へ到着。詳しい説明は割愛させて頂きますが、ブルガリアの美しい部分が凝縮されたような佇まいです。
本堂壁面には一面美しいフレスコ画が描かれています。
本堂脇のフレリョの塔は14世紀の建設当時のまま残っています。その中にお土産屋をどんと構えてしまうあたり、ブルガリア気質ですね。
結局どうしても一日がかりになってしまいますが、それだけに思い出深い僧院セルフツアーとなりました。最後までお読みいただきありがとうございました。
まだつづく・・・。
追伸
危ない!
足元注意。至る所に素晴らしいインフラ事業の痕跡が残されています。
バックパッカー旅日記ブルガリア1 [バックパッカー]
学生の頃から各地をバックパックで巡って来ました。
基本チケット一枚で、大まかな日程だけ決めて細かい行程は向こうで、というスタンスで出発します。この街が気に入ったからもう一泊、なんて融通を利かせています。
用意されたツアーでの見学より、自分で移動して辿り着くまでの道中にこそ、思い出深い経験が隠れていたりすることがあるものです。
超個人的偏見先入観的見解ですが、日本人が多い場所はあまり好きではなくて、あえて(あまり)メジャーでない場所を選んだりしてしまいます。問題は自分の方に合って、せっかく現地語や旅行英語でトライしたいのに、見ず知らずの日本人に遠慮や躊躇してしまうことがあって自分が嫌なんです。
さて、今回の旅行先はブルガリアです。
某乳業のブルガリアヨーグルトの容器から、「青空とどこまでも広がる雄大な自然の美しさに溢れる国」、のようなイメージを持っていました。もちろん間違いではありません。しかし正解でもありませんでした。
実際は東欧の貧しい中進国といった感じです。首都ソフィアでは貧富の差も散見され、ゴミの散らばるエリアもあったりして、お世辞にも綺麗な街ではありませんでした。逆にアジアに見られるような、活気溢れる成長著しい都市という印象を持った次第です。
今回旅行をするにあたり一番興味深かったことのひとつは、ブルガリア人の首の振り方が逆だということです。ハイで横に振り、イイエで立てに振るので注意が必要です。さらに相手が外国人だと向こうが合わせて逆に振ってくれることもあるので、ジェスチャーだけでは不確実なので、実際の発音「ダ」と「ネ」で聞き分ける必要がありました。
さて、首都ソフィアですが・・・・、
活気、喧騒、混沌、どことなくアジアを感じる雰囲気が広がります。
首都ソフィアの主な移動手段はバス、トロリーバス、ミニバス、トラムなどで、地下鉄もあります。街のインフラ整備は地下鉄延伸に注がれ、まるで他の整備は御座なりのよう。維持管理にはあまり力を入れないようで、新車以外はとことん古く汚いものが多いです。旧共産党時代からのお下がりとも見受けられます。
本当に古く汚い車体です。掃除する習慣が全くないようです。新車を導入してそのまま朽ちていくまで使うのみのようです。
ミニバスはバス停がなく手を挙げて停めます。ルート上のどこでも降りることができます。
路線バスもトラム網をカバーするように発達しています。
車内も、本当に、その、汚いです。どことなく哀愁、否、哀臭。
首都ソフィアではバス停近くの券売所で切符を買い、車内で自分でパンチをします。時折ある検札でひっかかると容赦なく罰金が課せられるとのこと。実はこの件でひとつのエピソードがあるのですが、それは後ほど・・・・。
地下鉄にも乗りました。
開通したばかりですからとっても綺麗!でもこの地下鉄もいずれ上記のトラムやバスのように朽ちてゆくのでしょう・・・・。
リラの僧院へ行く時に、電車にも乗りました。ツアーや直通バスもあるにはあるのですが、本数の都合や、道中そのものを楽しみたい思いもあって選択しました。
英語表記がなくキリル文字一本の潔さ。窓口でもあまり英語が通じないので、ガイドブックの文字を写して筆談したり、片言のブルガリア語で何とか意思疎通できました。
電車もまた古く・・・・~、以下略。
首都ソフィアの駅構内のエスカレーターでさえこんなです。きっと鳴り物入りで導入されたのであろうに・・・・。補修とか修理とか、そういうのはないみたいです。
駅地下道だって鳴り物入りで・・・・~、以下略。
そんなこんなで始まったブルガリア旅行です。巡った先や出来事の話は、また後日記事にしたいと思います。最後までお読みいただきありがとうございました。
つづく
バックパッカー旅日記 ~ロシア・ハバロフスク~ [バックパッカー]
私がロシア旅行で樺太からハバロフスクを巡ったときの旅日記です。樺太編はこちらです。
http://elbram.blog.so-net.ne.jp/2009-11-07-1
なお、その他の地域を旅行した際の旅日記はこちらの記事にリンクが貼ってあります。アドレスはyahoo!ジオシティーズのものです。
http://elbram.blog.so-net.ne.jp/2009-09-08
~ハバロフスク~
ユジノサハリンスクから1時間。とうとうロシア本土への上陸。サハリンでの搭乗手続きや荷物チェックは、極めて厳重なのに、機内は自由席だったり、力の入れてる部分と、適当な部分の差がいかにも共産時代の名残りと思わせます。
極東の離島サハリンから到着したせいか、まず市街地の賑やかさに驚きました。これがモスクワ経由だったら、単なる極東の片田舎にすぎなかったのかもしれないのに。
繰り返しになりますが、やはり事実は捉える側によってその姿を多様に変えていくのです。
まず何より、存分に本土の恩恵を受けています。民主化の経済流通の波を上手く乗りこなし、繁華街(が存在する)には、西側のメーカーショップが並び、市内交通網も緻密に整備されています。
3本の丘に並行して開かれた街は、それぞれが急な坂道で繋がっているので、バスやトラムといった交通機関は市民にとって欠かせない移動手段となっています。
しかしながら、資本主義化後に入ってきたと思われる新らしいバスと、ガラスも割れてエンジン剥き出しの、明らかなソ連時代のお下がりのバスが一緒に走っているのを見ると、まだ市場は道半ばであるという印象も残りました。
例えば、「サービス」という概念が旧東と西ではだいぶ違うと感じました。バスやトラムを例にすると、当たり前のように清潔を保ち、運行ダイヤを大切にし、顧客の接遇を第一にする我々と違って、ここでは運行していることが何よりのサービスのようです。遅れや汚れを気にすること自体ナンセンスなのです。誰もがそんなことは気にしません。
むしろ、バスが“来て”、“乗れて”何が不満なの、歩いて坂を登るの?と不思議がられるでしょう。
ロシアにではどこの街でも「レーニン広場」「レーニン像」があります。このレーニン広場からは、都会的な発展した街並みが広がるのが見えます。
街の西端を流れるアムール川の対岸はすぐ中国。ここでは、中国系の人達や文化も数多く行き交い、相互に影響を与え合っています。美術館では、樺太よりもさらに中国系の文化の影響が色濃く感じられました。
写真は赤軍博物館です。さすがは元共産国家、物々しい施設も公開されています。それらの展示物を見ると、ロシア(ソ連)の歴史は、いや、もしかしたら世界の歴史は、そのほとんどが戦争、争いと共に刻まれてきたと言っても過言ではないかも知れない、と改めて感じました。
実際に大戦で使用された戦車や砲台、司令室のレプリカ、引退したミグ戦闘機等、生々しい展示が続きます。日露戦争の遺品、名前の刻まれた破れた日の丸等も展示されていました。
その中には、当時の月刊グラフ1948年7月号が。左下には、「僕らは捕虜になってもソ連で元気にやっています」との見出し。まだまだ言論の自由へは程遠かった時代を印象付ける表記です。何をもって「元気」と根拠付けているのでしょう。帰らぬ親族を、せめても慰める情報操作なのでしょうか。
今現在の「平和」とは、“核”で緊張し合った「平和」とは、その「平和」とは、果たして「平和」なのだろうか、と巡るめく思考が、螺旋の中で回り続けていくのでした。
ハバロフスク駅前のハバロフ像。街の名の由来となった人物です。この街のレーニン像よりも大きかったのは意外でした。
色々と物思いにふけるロシア旅行はこれでお終いです。最後までお読み頂きありがとうございました。よろしくばその他の地域の旅日記もご覧ください。
バックパッカー旅日記~ロシア・樺太~ [バックパッカー]
かつては、僻地好きバックパッカーと称し、あまりメジャーではない国や地域を好んで旅行してきました。そんな旅日記集総集編へのリンク入口は下記になります。 http://elbram.blog.so-net.ne.jp/2009-09-08
さて、ここでは紹介を兼ねてロシア、樺太編をUPします。
樺太は、羽田から乗り継いでも所要2時間半。
稚内からわずか40kmのロシア。
いつぞやのCMを真似して言えば、「遠くの沖縄より近くのロシア」、という感じになるのだろうけれど、実際は「まだまだ近くて遠い土地、ロシア」というのが、正直な感想です。
樺太の玄関口、ユジノサハリンスク空港では、ターミナル連絡バスが、札幌市営バスのお下がりだったり、窓に謎の銃痕があったり、ドキドキとワクワクの連続でした。ここから極東ロシアの旅が始まります。
千歳~ユジノサハリンスク間は、サハリン航空が就航。
歴史に翻弄され続けた異端の島は、日露戦争で、ロシアから日本になり、第2次大戦で再びロシアに召還されました。その度に、ある人は故郷を失い、ある人は故郷を得て、新たな歴史を刻んできました。
日本が「終戦60年」と唱えるならば、ロシアは「サハリン州生誕60周年」と謳う。 事実は捉える側によって多様にその姿を変えていくのです。
戦後まで日本だった樺太に残された文化や慣習、建築、美術等が、新生ソ連の開拓者達に継承され、新しい文化、慣習とミクスカルチャーし、ロシア本土とはまた違う「独特なロシア文化」が形成されています。
日本の面影、強制抑留された朝鮮の人々の面影、シルクロード経由の中央アジアの面影・・・。ロシア人が住んでいるからこそ、かろうじてここがロシアである、ということを思い出します。 残された日本建築に出入りするロシア人を見ていると、何とも言えない不思議な錯覚に陥いります。
ここ極東ロシアはソ連崩壊後、本土の民主化の波に遅れて、いかにも“カントリー”です。それが逆に素朴で人懐こい人柄を温存し、旅行者を気さくに受け入れてくれる土壌ともなっています。
もしも仮に、今なおこの地が日本だったならば、インフラも経済状況も今より遥かに発展していただろうに、と考えてしまいますが、樺太ののどかで穏やかな大地に降り立つと、きっとこれで良かった、のかも知れません。
ユジノサハリンスクの市場にて。
冷戦期間の影響からか、ここでは英語が全く通じません。街に英語の表記もなく、全てロシア語表記。露会話集での片言のロシア語と、写真とジェスチャーとで何とかやり過ごしてきました。そのめちゃくちゃな、必死のコミュニケーションに付き合って、一緒に試行錯誤して対応してくれた現地の人達には、ただただ感謝の思いで一杯です。片言でも現地の言葉を話すことで、みんなの表情が和らいでくれるのがとても嬉しかったです。
「郷に入ったら郷に従え」というけれど、実際“郷”の方が日本人に合わせている観光地が多い中で、こんな近くに“従うべき郷”が残されていたことは、非常に貴重な体験だと思いました。
また、冬が厳しいせいか、あらゆる建物、商店は出入口が小さく二重扉で、さらに雪の照り返しを防ぐ為か、防犯上の理由からか、窓にもフィルムが貼ってあり何の店だか全く分かりません(なにせロシア語が分からないし・・・)。
試しに入ると、店内は意外に広く明るいです。
買い物をすると、僻地特有の事情だろうか、硬貨がほとんど流通していません。レジの中には10ルーブル札以下の硬貨は入っていなくて、それ以下のお釣りは切り捨て、省略されてしまいます。初めはボラれているのかと思ったのですが、現地の人も普通に「ない(ニェットゥ)」、「じゃあ(ダー)、ポイ(ポイ)」(ポイは「ポイ」らしい)、と話していたので、ごく普通のことのようです。
街を歩くと、旧拓殖銀行や旧樺太庁舎等の当時の日本の施設が保存、開放されている反面、そこにロシア人独特の日本観が加わって、何となく「ヘンテコな日本」になっているのが面白いです。旧日本の文化と歴史を残そうとしてくれた、新生ソ連開拓者達に感謝しながらも、「西側に付いた日本」の情報は少なく、彼らにとって正に「近くて遠い国」だったのでしょう。実際、突っ込みどころ満載なのです。
旧拓殖銀行豊原支店。 現在は美術館として開放されています。旧日本時代の書道の掛け軸や、着物、仏壇(!)には、驚かされます。あぁ、確かにここはかつて日本だったのですね。
旧樺太庁舎。
郷土資料館。 樺太時代の生活品や日露戦争時代の軍事品、島に生息する生物群の剥製等が展示されています。北緯50度、旧国境にあった石碑には仰々しい菊の御紋が記され、外には実際使用された砲台や日本庭園のレプリカ、狛犬とシーサーの合いの子のような置物があります。よく見るとどこか変。そういえば建物も微妙に朝鮮テイストが混じっています。
資料館展示地図。ロシアにおいて、「北方領土問題」という概念自体が存在しないのです。4島が思いっきりロシア領になってます。
博物館庭の狛犬レプリカと戯れるロシアの子ども達。あぁ、ロシアなんですね。
駅前の鉄道博物館にて。当時のD-51や日本から寄贈されたディーゼル車が展示されています。実際にこの地で走っていたのですから、なんとも不思議です。
中心部には、これでもかと言わんばかりのレーニン像が建てられています。さすがロシアです。
私が着いた日は丁度お祭りだったようで、バスと綱引きなんてイベントをやってました。
そんな樺太の路線バスはこんな感じです。美しいですね。
スーパーに並んでいる豊富な魚介類には圧巻でした。キャビアも普通に並んでいます。安い!
そんなこんなで感慨深い樺太に滞在した後は、ハバロフスクまで飛びました。また機会があればハバロフスク編もUPしたいと思います。最後まで読んでいただいた皆様、ありがとうございました。
ちなみに、その他の国々をまとめた旅日記集総集編もあります。リンク入口は下記になります。 http://elbram.blog.so-net.ne.jp/2009-09-08
旅日記集 [バックパッカー]
いわゆるバックパッカーです。バイト、旅行、バイト、旅行とサイクルした学生時代でした。
旅行は主に海外で、あまりメジャーでない地域を選びました。旅の途中では、日本人に会いたくないと本気で思いました。異国情緒に浸りたい時、日本語が飛び交っていると幻滅してしまうから。
現地の人に、現地の言葉でたどたどしくコミュニケーションを図るのが好きでした。郷に従いたい旅人でした。話せて当たり前に思われてしまう英語圏を避けていました。もし日本で外国人旅行者に、片言で「あのうー、すみまーせん」とたどたどしく聞かれたら、何となく親切にしてあげたくなりませんか。その逆な感じです。
そんな旅の思い出を、個人的に下記のHPにまとめています。若々しい感性が溢れているなぁ、と懐かしく思ってしまう今日この頃です。
http://www.geocities.jp/zunazuna2002/ryokou07.html